こんなに笑ったのはいつ以来だろうか。

・・・・・・いや、きっと初めてだと思う。




滅多に動かさない頬の筋肉が少し吊りそうに痛かったが、

彼女がもたらしたこの笑いを堪えることはできなかった。














第五話:Smile



















彼女が店を出て、数分もする頃には少しずつ客が入ってきて店内はざわついてきた。

私のテーブルから一つ離れた席についた男女の会話を断片的に耳にすると、結構評判の店らしい。




やがて、アルバイトらしい女性も奥から出てきてこじんまりとした店内をぱたぱたと駆けまわる。







カフェFavoriteで出された食事はなかなか美味なものだった。

ほんの少しだけバジルをきかせたサラダにコンソメスープ、ホワイトソースをからめたカルボナーラ。



特筆すべきはやはりケーキ。

おすすめだというベークドチーズケーキは私好みの甘さで、つい3つほどテイクアウトに頼んだ。




「はい、こちらがお持ち帰りのケーキでございます。

ありがとうございました」




マスターに見送られて店を出た。

通りは頼りない街灯がちらちらと点滅していて、店の柔らかい灯りだけが通りを照らしていたが。


頭上の光に気づいてふと夜空を仰いだ。

白い、真っ白な月。





―――ああ、今日はいい満月だ。




都心のきらびやかなビル街の真ん中にあるホテルから眺める月は、

周りの人工的な光に遮られて弱々しく見えてしまうけれど。


こんなに輝くものだったのかと、今さらながらそう思ってしまった。

















左手はジーンズのポケットに突っ込んで、右手にケーキの入った紙袋を手にして。

店から50メートルほど離れた所まで歩き、すでにシャッターの下りたブティックの前に腰を下ろした。

微かに香ばしい匂いのする、包んでもらったチーズケーキに心が揺らぐ。



・・・・・・1つだけなら。



がさっと紙袋を開けてケーキを1切れだけ取り出した。

フィルムを剥がし、アルミに乗せたケーキを口いっぱいに頬張る。


やはり、これはなかなか美味しい。

何より、私好みの甘さのケーキなんて滅多にないのに。



・・・・・・彼女もこのケーキを好きなんだろうか?









ブロロロロ・・・・・・




やがて、この静かな路地には似つかわしくない、黒光りする大きな車が走ってきた。

その車はヘッドライトに私の姿を捉え、私の目の前でゆっくりと停車する。

私は手にしたケーキを一気に頬張り、指についたスポンジ生地をぺろっと舐めて立ち上がった。




「お待たせしました」




運転席から出てきたのは迎えのワタリ。

素早く後部座席のドアを開ける。

のそのそと乗り込むと、ワタリはすぐに車を発進させた。



座席で膝を抱え、流れていく夜景をぼんやりと眺めていたが。

ふと思いついて口を開いた。




「・・・彼女は?」


「部屋で待っていただいております。

予想外の事に対してすぐに的確な行動を取れる、本当に賢いお嬢さんでいらっしゃいますね。

さすがは私立探偵と言ったところでしょうか?」





まるで幼い頃に大人から褒められたような感覚を覚えた。

自分のことで喜びを感じることさえここ数年なかったのに。




・・・・・・やっと逢える。話せるんだ。

膝に顔を埋め、私は子供のように心躍らせていた。
















昨夜チェックインしたホテルに車が到着した。

ワタリがベルボーイに車の駐車を頼むのを横に聞きながら私は回転ドアをくぐってロビーに入る。


出発前と違い、ロビーにはドレスアップした男女が溢れかえっていた。

そんな空間で私はいつも通りのシャツとジーンズ姿。

私の滞在など知らないであろう年若い従業員が、華やかなロビーで明らかに異質な私を無遠慮に見るのを無視する。










ワタリと二人でエレベーターに乗り込んで最上階を目指し、すぐ側にあるレストランを越えた。

カモフラージュのドアを開けて豪華な長い廊下を歩き、一室しかないスィートが数段だけの階段の上にある。




大きく唐草模様の施されたドアをワタリがノックして開け、私を先に入れる。










彼女はそこにいた。

私が結構気に入った大きなソファに足を組んで座り、文庫本を読んでいる。



先ほどと違い、今度は私の姿を見てもちっとも驚いた様子を見せずに彼女は顔を上げる。

そして、唇だけ軽く横に広げて笑みの形を作ってみせた。




・・・・・・・・・・・・・・・だけど目が笑っていない。





「・・・こんばんは、お邪魔してます」




明らかに私への敵意が見て取れる棘のある挨拶。

やはり、不明なことが多すぎて気に入らなかったのだろうか?

・・・・・・込み上げてきた笑いは、すぐに愛想笑いに変えた。




こう見えても腹の探り合いでは負けませんよ、さん?





「こんばんは、お待たせしました。ワタリ、お茶を」


「はい」





買ってきたケーキはワタリに手渡し、彼女の向かいの革張りのチェアに座り膝を抱えた。


昨夜日本に着いて、ワタリが用意したホテルのスィートは派手な美術品が多く飾られている部屋だった。

本当はもう少し落ち着きのあるシンプルな部屋の方がよかったのだが、

防音や盗聴対策がしっかりされているシークレットVIP専用の部屋なので、我侭は言えない。





「お久しぶりですね、さん。お元気そうで何よりです」


「・・・・・・それはどうも。そちらもお変わりないようで」





腕組みして、まるで用意された台本を読んでいるような棒読みで、しかし彼女は笑顔。

・・・彼女の意図を読めないほど馬鹿ではないが、彼女のその様子が面白いのであえて態度は変えない。



そしてワタリは香ばしいお茶を私たちの前に置き、私が買ってきたケーキも一緒に並べた。

店で1つ、さっき路地で1つ食べたけれど、こんなにおいしいケーキならまだ食べられる。





「あのお店のチーズケーキです。

私好みの甘さのケーキなんて久しぶりに見つけたもので、つい買ってきてしまいました。

さんもこのケーキはお好きですか?」





紅茶に砂糖を入れてかき混ぜながらそう言った。



・・・すると彼女はゆっくりと息を吸い、更に笑顔の率を上げる。





「・・・・・・ねぇ、竜崎さん?」



「はい何ですか、さん?」




わざと素知らぬ振りをして聞き返してみた。

すると彼女の笑顔はだんだんと引きつったものに変わっていく。











・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・、、、


すっとぼけるなぁぁぁっっ!!


だから、こんな所で何してんですかぁぁぁぁっっっ!!!??










・・・だめだ。

・・・・・・・・・・・・もう限界だった。









あっははははははっっっ!!


「ちょっ・・・、何笑ってんですかっ!?ねぇ竜崎さん!?ああもう、Lっ!?」


ははははっっ!!あっはははははっっ!!!






拳を握りしめ、顔を真っ赤にして怒鳴る彼女は本当に面白くて。

私は怒られているということも忘れてしまっていた。




・・・いきなり大笑いを始めた私を、ワタリが驚いたように見ていることには気づいていたけれど。