ワタリが予約してくれたその店は、静かな路地の中にあった。





すっかり暗くなった路地に浮かぶ柔らかい光。

カフェFavorite、か・・・。


ワタリには後ほど連絡する、と伝えて車から降りる。

ドアに近づいて微かに聞こえてくるのは、どこかで聞いたことのあるような華やかな曲調のピアノの音。




その曲をもう少しだけ聞いて入ろうと思っていたけれど、逸る心を抑えることができなかった。

・・・・・・らしくなく期待しながら、私はゆっくりとドアを開けた。


















第三話:再会はピアノの音色と共に














ドアベルの音が思ったよりも大きかったので、軽く眉をひそめた。


こじんまりとした店内は明るすぎず、薄明るいランプの柔らかい光に包まれている。




ドアの外まで微かに聞こえていたピアノの音が止み、

奥のアップライトピアノに向かっていた人物が立ち上がってこちらへ近づいてきた。





「いらっしゃ・・・い、ま、、せ・・・・・・っ!?」




明らかに動揺しているらしい声。

大きな目を見開いて、少々引きつった表情。



出迎えてくれたのは、彼女だった。

変わらない髪型、瞳。

行きつけの店とは聞いていたが、本当にいるなんて。





「予約した流河です」





私は顔色一つ変えずに彼女にそう告げる。

しかし、彼女の動揺はまだおさまっていない様だ。

驚きすぎたのか、ぱくぱくと口を動かして何やら言おうとしている。





・・・・・・・・・まずい。なるべく竜崎の名は外では使いたくない。





素早く店内に目をやり、誰もいないか確認する・・・・・・誰もいない。





一瞬だけ人差し指を口許にやって、落ち着くように促した。



ほんの少しだけ目を見張った彼女。

その次の瞬間には表情から動揺を消し、はっきりと私を見据える。




「・・・・・・いらっしゃいませ。ご予約承っております、どうぞ」




大人びた笑顔でゆっくりと口にされた言葉はひどく落ち着いたもの。そう、あのを思わせるような。

Lとして彼女と接していた頃から思っていたが、本当に適応能力の高い人物だ。



・・・高校生くらいに見えてもやはり、彼女はに違いないのか。



























「すみません、マスターはちょっと買出しに出てまして。

あと10分程で戻ると思うんですけど・・・」



「構いませんよ」




彼女に案内された席について、手渡されたメニューを広げた。

アールグレイ、ダージリン、アッサムなどの王道から・・・ディンブラ、オレンジペコ、キーマン・・・・、

・・・・・・紅茶の数などは割と幅広い。

これだけあれば、イギリスの街で店を構えられるのではないだろうか。




「えっと・・・よければ、紅茶もお出しできますけど、どうでしょう?

・・・私の淹れるものになりますが」


「光栄です、頂けますか?

・・・この匂い、クィーンメリーでしょうか?置いてあるなんて珍しいですね」




微かに漂うこの匂いは、それに間違いない。

イギリスにいた頃、よくワタリに淹れさせていたから。


私がそう言うと、彼女は「あ、」といった風に表情を変えた。




「あ、違うんです。それは・・・私が持ち込んだもので。

でも、出せますよ。淹れましょうか?」


「ええ、お願いします」




彼女はぱたぱたとカウンターの向こうに消える。





こんなにも簡単に逢えたなんて。

あの姿を再び視界に入れることができたなんて。





策を弄したのは他でもない自分だが、彼女ほどではないにせよ私だって驚いていた。





















こぽこぽこぽ・・・・・・、



沸いた湯をティーポットにゆっくりと注いでいる。

リーフを蒸して香りを出しているようなその動作は、ワタリの方法と全く同じ。

紅茶とは、一貫してああして淹れるものだったのか・・・・・・。





随分と手慣れた様子で紅茶を淹れる彼女の表情は真剣そのもの。

あまり不躾に見ていては失礼なので、彼女から目を離し、店内の様子を観察する。



さりげなく飾られている印象派の絵画たち。

勿論、複製品だが、そんなことを問題にすることもなくこの空間にうまく溶け込んでいる。

小さなギャラリーを思わせるようなここは、あまり外出を好まない自分でも好きになれそうな場所だった。


まるで、ロンドンで見つけたあの私のお気に入りのカフェと同じような空気を感じたから。









やがて、彼女が小さなトレイを抱えて近づいてきた。





「はい、どうぞ」




かちゃ、と丁寧に紅茶をテーブルに置いた。

ミルクとシュガーポットも脇に添えるように置かれる。


彼女は銀色のトレイを抱くようにして持ち、笑顔で私を見下ろした。




「すみません、私、ピアノ弾いててもいいですか?」


「ええ、どうぞ?」




私がそう言うと彼女はにっこりと笑い、すぐそこにあるアップライトピアノに再び向かった。




「リクエストか何かありますかー?」




ひょいっとこちらを向いて、そう言い出してくる。

・・・あまり音楽には詳しくないが・・・・・・、




「・・・では、『猫ふんじゃった』を」





至極真面目にそう言うと、彼女は椅子からずり落ちそうになってやや引きつった表情を浮かべる。





「・・・・・・マジ、ですかぁ・・・?いえ、弾けますけどぉ・・・・・・!」


「冗談です。そうですね・・・、『悲愴』の・・・激しい曲調は何楽章でしたか?」


「・・・え、と・・・1楽章だと思いますけど」


「ではそれを」


「・・・・・・・・・はい、弾きます」






少しだけ調子を狂わされたらしい彼女だったが、

やがてすぅっと息を吸って気を取り直してみせる。




・・・・・そして、短調で始まる和音が強く押さえられた。




重い雰囲気で始まったその曲を聴きながら、私は彼女が淹れてくれたクィーンメリーに砂糖とミルクを入れてかき混ぜる。







さっそくカップを持ち上げるが、ソーサーとカップの間に挟まっていた小さな紙切れに気がついた。








とりあえず、先に紅茶を口にする。

・・・・・・美味しい。ワタリが淹れた紅茶と比べてもちっとも劣らない。

そしてゆっくりカップを置いて、

丁寧にたたまれている紙切れをつまみ上げゆっくりと広げた。








こんな所で何してるんですか!?









小さな紙にスペースを余すことなく大きく走り書きされた一文を読んで、私は腹を抱えて笑いたくなった。


笑って紅茶を出してくれた先ほどまでの彼女はそんな様子は微塵も見せなかったのに。

内心でそんな叫びを抱えてただなんて。


そう思うと、先ほどからよくもあんなに指が動くものだというほどの見事な腕前で曲を奏でている彼女。

激しい曲をまるで叩きつけるように弾いているのは私への当てつけかとも思えてきた。






・・・・・・だめだ、笑いが込み上げてきてしまう。





集中して無表情でピアノを弾き続ける彼女はそんな私に気づかない様子だが。

最後を一気に駆け上がるように弾き、和音を思い切り叩きつけて、曲は終わる。



そして、こちらを振り向き演奏中とは打って変わった笑顔を見せる。



私も笑い、軽い拍手を送る。






その時。







カランカランカラン・・・!






私が入ってきたときよりもけたたましい音をたててドアベルが鳴る。

慌てた風に入ってきたのは40代ほどだろう男性。




ちゃん、悪い!時間かかってしまった!

・・・っと、予約の、流河さまでらっしゃいますか?」


「はい」


「お待たせして申し訳ありません。少々お待ちくださいませ」




そう言い、両手に野菜などが入ったビニール袋を抱えて厨房に消える。

そして、すぐに黒いエプロンをかけて現れた。


この店のマスター、か。





「ご予約なのに、本当に申し訳ありませんでした」


「いえ、こちらの方が紅茶を淹れて、ピアノまで聞かせてくれまして。

ちっとも待ちませんでしたよ。

そうですね、この店の何かおすすめみたいものを。

何でも構いませんよ。ああ、食後にケーキをお願いします」


「かしこまりました」





そうして、オーダーを準備する為に彼は厨房へと消えた。

しばらくして店内のスピーカーからBGMとして流れてきたのは、落ちついたピアノ曲。


やがてピアノの前に座っていた彼女は立ち上がって、マスターの元へ行こうと私の目の前を通り過ぎようとした時。



・・・タイミングを見計らって、彼女の手を取った。

何故か彼女の手首に巻かれている黒いリボンがふわっと私の手にも引っかかった。







彼女の手の中に素早く先ほどの紙切れを滑り込ませた。





彼女は特に驚いたような素振りも見せず、何もなかったかのようにその場を通り過ぎる。







「ご苦労様だったねちゃん、本当に助かった。

もう帰っても大丈夫だぞ」


「じゃあ、帰りますね。学校が始まったらまた来ます」





マスターとそのような会話を交わした彼女は、私のことを気にする素振りも見せずに店から出て行った。

店内には誰もいないが、この一連の出来事を普通の一般人が見ていても、

私たちの間に何かあるなんて誰も気づかなかっただろう。






・・・としてだけじゃない、彼女自身も本当に適応能力の高い、有能な人物だ。


彼女が淹れてくれた紅茶の最後の一口を名残惜しく飲み干して、私は口許に笑みを浮かべた。