誰よりも喜んであげたいのに。


どうして、僕は・・・・・・、











閑話:彼女との別れ―――ライト編













それに気がついたのは・・・彼女がアメリカへ留学するんだと僕に告げた時からだったか。






だから、高校1年の春休み。

気が向いて学校の図書館へ行ったら、彼女が職員室から出てくるのを見たから。

ローマン体のアルファベットが細かくびっしりと連なっている英文の資料を、両手いっぱいに抱えて。



声をかけた僕にいつも通り微笑んで、彼女は手にした資料を目で示して、こう言ったんだ。





―――私ね、アメリカに留学したいんだ。





・・・・・・全く思いもよらないことだった。



だって、そうだろう?

何事も変わらずに、毎日顔を合わせて・・・・・・、そんなこと、一言だって言わなかったじゃないか。





内心でひどく動揺している僕を気にすることもなく、彼女ははきはきと言葉を続けた。




―――決まったら、たぶん日本には戻ってこないかも。

ハイスクールを卒業してそのまま向こうの大学に進むつもりなの。






迷いもなく真っ直ぐに・・・、はそう言った。

彼女の顔立ちによく似合って気に入っていた、

へーゼルブラウンの瞳を直視することができなかったことなんて初めてだった。











・・・が僕の側からいなくなってしまうかもしれない。







・・・・・・・気づくのが・・・遅すぎたのか?




















―――、どうしていきなり留学なんだ?


―――え?今の私には無理?


―――いや、そうじゃなくて。・・・今までそんなこと言わなかったのに、どうしてかと思って。


―――ああ、うん・・・・・・、話すと長くなるんだけど・・・、

   ・・・要約するとね、今よりももっともっとたくさんのことを勉強したいんだ。


―――・・・わざわざアメリカで?


―――2番目に身につけたいのが語学力だから。


―――・・・1番は?


―――ごめんね、内緒。これはアメリカじゃなきゃダメなんだ。






何だか上手く言いくるめられたような、留学の理由。

・・・・・・だけど、彼女の決心はとても強いものだったらしい。



その日から毎日、彼女の姿を図書館で見かけるようになった。

脇目も振らず、真剣な表情で英語の勉強をしている彼女。

春休みが終わり、2年に上がってもちっとも変わらない。



・・・英語は最も得意としているが、あそこまで本気になって勉強するなんて。
















そして・・・、夏休み目前。



「ライトー!決まったよ!合格!!」



教室内がざわついている昼休み。

クラスは違うのに、彼女はずかずかと僕のA組に入り込んできた。


・・・以前、彼女にいろいろと嫌がらせをしてきた女たちが教室の隅で眉をひそめているけれど、

はそんなことも気にせずに。


だから、僕もちっとも気にしていない風を装って彼女に笑いかける。




「本当だ、よかったね」





彼女が目の前に突き出してきた紙切れを受け取って、僕はやや事務的にそう言った。



・・・ああ、本当だ。編入許可通知書。

英語で書いてるけれど、残念ながら僕にとっては何てことのない文章。



・・・・・・いくら詰めが甘いと言っても、

僕と張り合えるほどのが落ちるはずはなかったな、やっぱり。



























このままでいいと思っていた。


彼女が変わらずに僕の側で笑っていてくれるなら、今のまま、友達で構わないと。




それなのに。


・・・・・・ねぇ、どうして、行かなきゃならないんだ?


・・・・・・ただの友達、じゃなかったら、アメリカ行きを止めてくれただろうか?
































その日の放課後、留学決定祝いということで、

嬉しそうな彼女に引っ張られて、メインストリートのカフェに付き合わされた。



一緒に出かけるのは本当に久しぶりだ。

編入試験を控えていた先月なんて、ほんの少しの会話も憚られるほどに切羽詰ってたみたいだし。



「ずっと前に見つけたんだ。もう一回ゆっくり来ようと思ってたの」と言って、連れて来られたのは、

綺麗な印象派の絵画とアンティークドールたちが迎えてくれたカフェ。

黒いレースのカーテンを引いた薄暗い店内は、オレンジ色に灯るランプの光が影を落とし、

夏場だというのに、ひんやりとした空気が半袖のシャツから出る腕にまとわりつく。



窓際のこの席からは、せかせかとメインストリートを歩いていく人たちが見下ろせる。




・・・いかにもが好きそうな場所だな。

そう思っている間に、は注文したケーキに早々とフォークを刺していた。



甘そうなラズベリーのタルトをおいしそうに頬張ると、

砂糖もミルクも入れないコーヒーをすする僕。



・・・・・・彼女との間に共通点がないことが何となく気に入らなくて、

脇に寄せられたシュガーポットに手を伸ばし、砂糖を一さじだけ入れた。




「あれ?ライト、コーヒーに砂糖入れてたっけ?」




はフォークをくわえたまま軽く目を見開いてそう言った。




・・・・・・全く、こういうことに関しては目ざといのにね。





「最近から、少しだけ入れるようにしてるんだ」


「そう、甘いものも中々いいんじゃない?」




は特に疑問を抱いた様子も見せない。


・・・何気なく吐いた嘘にも気づいてもらえなかった。



適当に作り笑いを浮かべた口許が少し歪みそうだったから、すぐさまコーヒーカップで隠してしまう。




「そういえば聞いてなかったけど、アメリカの何処へ留学なんだ?」


「ああ、ニューヨークなの。

お父さんの会社がニューヨークにあるから、何かと安心かなって。

だけど、あまりにも生活が慣れなかったら、泣いて帰ってくるかもね」




だけど、その顔は異国で暮らすことに不安なんてちっともないような、明るい顔。

そのままの笑顔で、はカチャ、とティーカップをソーサーへ戻した。

次いで、左手で頬杖をつき、右手でテーブルの上にちょこんと置かれている一輪差しの花をぴんっとはじく。




「・・・・・・何か、実感ないんだよね。

もしかしたら、みんなと会えるのもこれで最後になるかもしれないのにさ」





やめてくれ、聞きたくない。





「あのさ、



思わず口をついて出たのは僕らしくなく、怒気をはらんだ声。


は少し驚いたらしく、頬杖をついていた腕を外してきょとんとした表情を浮かべる。




「なーに?」




・・・・・・・・・・・・・・・、




「・・・・・・・・・・何でもないよ」




一つだけ大きく溜め息をついてそう言った。


・・・言える訳がないじゃないか。




「?ヘンなの」


に言われたくないよ」


「何それ?」



眉をひそめて口を尖らせる。

・・・そんな顔をさせたいんじゃないのに。



少し苛立ってきて上手く機能しない思考を落ち着かせるため、軽く息を吐いた。

唇を真横に引っ張って、軽く笑みの形を作ってみせる。




「・・・飛行機は?」


「え?あ、ああ、えっとね、本当にすぐなんだよね。

来週の水曜日。朝出発のニューヨーク行き。

みんな見送りに来るとか言ってるけど・・・・・・授業、どうするんだろ?

ライトも来る?」


「・・・・・・僕が授業サボるわけないだろ」


「それもそうでした」




はおどけたように笑い、開いた両手を目の前でぽんと合わせた。






・・・言えばよかったんだろうか。

・・・留学なんてしないで、僕の側に居てほしいって。



の居ない毎日なんて・・・目に見えてるさ。

刺激なんてない、退屈な毎日が待ってるに決まっている。





・・・・・・でも、本当に嬉しそうに留学決定を話してくれたから。




・・・・・・そんなこと、言える訳がなかった。




















カフェを出ると、外はもう薄暗かった。

銅色の街灯がぼんやりとした光を放っている。



僕の肩に額が届くくらいの背しかない彼女に歩幅を合わせて、


・・・どうやら、僕らのスケジュール上、顔を合わせられるのは今日以外にはもうないらしくて。




知り合って1年以上。

僕にしては珍しく気の合った、・・・友達。


・・・離れたくない、と願った、・・・女の子。



・・・なのにこんな、あっさりとした別れになるなんて、誰が予想できただろう?




「それじゃね、ライト。

・・・・・・いつか、ニューヨークに遊びに来てよ。メトロポリタン美術館とか、ブロードウェイとか、

一緒に行きたいなって思うところ、結構あると思うしさ」


「・・・いつかね」




そんな機会が運良くあるわけが・・・ないのに。


ひどいよな、




「本当に、いろいろありがとう。

ライトは、一番の男友達だよ。私も向こうで頑張るから。

それじゃ・・・バイバイ!」




本当にいろんな顔を見せてくれたけど、僕が気に入っていたのはやはり笑顔の彼女。


・・・その笑顔で別れの言葉を残していくなんて、何て皮肉なんだろう。





くるりと踵を返して、は雑踏の中へ紛れていく。

颯爽と歩むその後姿には何の名残惜しさも感じさせない。こちらを振り返ろうともしない。




高1に比べてかなり伸びた茶色の髪が、もう見えなくなってしまった。



彼女が消えた一点を見つめたまま、僕はその場を動かない。

邪魔そうに視線を流した中年の男を睨み付けて、再びその一点へ視線を戻す。




男女の意識をあまり感じさせない、元気な彼女。

僕と同じ高さでものを見てくれる、とても賢い彼女。


ああ、やっぱり・・・そうなんだ。




「・・・・・・・・・本当に好きだよ、





この数ヶ月、自身の中でずっと抱えていた言葉を初めて口にした。



雑踏の中で紡がれた行き先のない言葉は、再び自分の中へと還ってきたけれど。