私の立場を考えると、あるまじき事態かもしれない。




それでも・・・彼女を信じてみたかった。

これは、ひと時の気まぐれとなるのだろうか?それとも・・・、















第一話:気まぐれ



















「竜崎、紅茶が入りました」


「・・・ありがとう、そこに置いてくれ」




ワタリからの声でデジタルの擬似世界からアナログの現実へと引き戻される。



多くの調度品が部屋の静かな雰囲気と同化しているが。

それらは私の目を休めるものとはなりえない。

今日も変わらず、私はコンピュータのスクリーンに表示される膨大な情報と向かい合っていた。



いつもの座り方のままその場を動かず、控えめにサイドに置かれた紅茶にシュガーポットから砂糖を入れる。

心なしか疲労していた脳はいつもよりも多めの糖分を欲していたらしく、無意識のうちに入れる砂糖の量が多かった。




「・・・今度の事件はどうですか?」


「・・・いつもと変わらない。一人で解決できそうだ」




ワタリにそう答えながら紅茶に口をつけ、再びデータの分析作業に入る。

アメリカで起きた謎の失踪事件。

FBIが私に依頼してきたのだが、

これはつい先日に手がけた日本の連続婦女惨殺事件よりも容易いものだとすでに判断している。





今回は前と違い、あまり手ごたえを感じられないかもしれないな。






「・・・・・・・・・・・・」








―――ごごごめんなさいっ!人がいるなんて思わなくって!


―――全然気になりません。私こそ、竜崎さんの気分を害したならごめんなさい。


―――じゃあ・・・また、いつか何処かで。逢えたら、いいですね。










無心に淀みなくキーボードを叩いていた指がふと止まる。





・・・また、か。

くしゃり、と無造作に伸び続けている自分の髪に手をやった。

表情にこそ出さないが、内心で自分の変化に呆れて軽く溜め息をついてしまう。





イギリスを出てもう数日は経っている。

自分の、まだ長くはない年月のほとんどを占める期間を暮らしていた国を出て、

新しい拠点にしようと移り住んだのはここ、中国。

香港の摩天楼を一望できるホテルの最上階を全て無期限でリザーブしたばかりなのに。




・・・ロンドンで出逢った彼女のことがまだ頭から離れない。





・・・ だと名乗ってくれた。

それは、素性を偽って存在している自分とは違い、まっすぐで素直な彼女のアイデンティティ。





目鼻立ちが整った顔の表情が、くるくるとよく変わっていくのが少しだけ面白かった。

どこか外国の血を僅かに引いてるのだろうか。

染めてはいなさそうなのに茶色がかった髪と、明るいへーゼルブラウンの瞳がとても印象的だったのを覚えている。







・・・一声聞いて、私の記憶にある彼女の声と一致した。


それは、私と共に連続婦女惨殺事件を追いかけ、つい前日に最後の通信を交わした

私立探偵のものに間違いなかったんだ。





これだけでは確信は持てなかっただろうが、それだけじゃなかった。

その時はまだ日本の捜査本部で事件の事後処理をしていたワタリから事前に報告を受けてはいた。

彼が偶然にも都内で接近遭遇した高校生くらいの年頃の少女。

彼女こそが今、自分と同じ事件を追いかけている私立探偵に違いないだろう、と。





長年の付き合いで自分が唯一信頼している彼の言葉でも、その時は信じられなかった。

との通信を思い返しても、彼女が10代の女性だなんて思いも寄らないことだったから。


冷静な口調、落ち着いた声音、何より、私も感心してしまうほどの洞察力を持った彼女。

私がある程度思い描いた彼女は、どう若く見積もったとしても20代後半を切ることはないだろうと思っていた。





けれど、偶然にも出逢ってしまった。

それもイメージとは全く異なる、ロンドンの重い空気を払うような光を思わせる明るい彼女に。





外界との付き合いを全て切り離した私の人生に突然現れた、彼女。

あの日のことが忘れられず、他人がこんなにも頭から離れないなんて。



事実、つい先日彼女がそろそろ帰国するだろうと思われるほどの時期に、

彼女にLとしてメールを出してしまったのだから。

聡明な彼女のことだから、私の正体を知ったところでどうこうはしないだろうと思った上での行動。

だが、極秘の存在を通さねばならない私としてはあるまじき行動だった。

更に言えば、ここ数日彼女の反応はどうだったんだろうか等、余計なことばかりに思考が走ってしまっている。




もっとも、皮肉なことに今、手がけている事件がそれほどの推理力を必要とはしていないので、

捜査に何ら支障は出てはいないのだが・・・・・・。


このままでは、さすがにまずいかもしれない。






「・・・・・・ワタリ」


「はい、何か?」




存在を空気のように同化させて部屋の隅に控えている彼に声をかけた。





「・・・例の彼女の居場所を知っている、と言ったな?」


「はい。彼女の行きつけのカフェですが。

最も、名前がわかっているのですから住所を突き止めることも容易です」




しばらくの間、私は沈黙する。

コンピュータの稼動音だけが通奏低音として流れて私の思考をかき乱そうとするが、

私の集中力はそんなものに惑わされるほど低くはない。





ワタリは私の言葉を待ち、微動だにしない。

知らずのうちに親指の爪をくわえて、私は目を閉じた。




―――逢えたら、いいですね―――





耳の奥にまだ残っている彼女の言葉。

脳裏にまだ残っている、彼女の笑顔。







・・・決めた。







「・・・・・・日本へ行く。都内のホテルを用意してくれ」


「拠点を日本へ変更するのですか?」


「いや。ホテルは期限付きで・・・そうだな、3ヶ月程度で構わない。

その後はここへ戻る」


「かしこまりました」




ワタリは私の意図を聞くことはなかった。

一礼して下がり、再び部屋に静寂が下りる。

彼が用意してくれた糖蜜がかかった杏仁豆腐を口にして、再びコンピュータに向かった。




私が何をしようとしていても、彼は無言で適切なサポートをしてくれる。

幼い頃から他人と関わることは皆無といっていい私にとって、空気のような彼の存在は本当にありがたかった。





深く関わってきた人間は彼だけのはず。

これまでも、これからもそれでいいと思ってたのに。













かんかんと照りつける太陽の光は暑すぎて長時間浴びてはいたくない。

豪奢なシャンデリアが放つ光はまぶしすぎて目を背けたくなる。




しかし彼女の放つ素直で明るい光は、もう一度だけ見てみたくなったんだ。






自分にはないものを持っている彼女を、もう一度だけ。

誓ってそれ以上でもそれ以下でもない。

特別な感情なんて持ってはいない。我侭な私のほんのひと時の気まぐれだ。














・・・・・・ただ、もう一度だけ、彼女に逢ってみたかった。


それもじゃない、 という女性その人に。













直に床に置いたコンピュータに背中を丸めて向かっていたが、ふと立ち上がって、テラスへ近づく。

厚いガラスを隔てた向こうは夜の帳が下り、眼下に広がる街はネオンによって彩られる。







・・・・・・夜は、まだこれからだ。