ある日常茶飯事














イギリスは郊外。

のどかな並木道。

木漏れ日が優しく降り注ぎ、鳥たちは可憐に囀る。


その並木道の向こうには立派な屋敷がそびえ立っている。

真っ白な外装に、大きなテラスやバルコニーがいくつも設けられ、優雅な雰囲気を醸し出す。


美しく整備された庭園の緑が、屋敷のその概観と見事に調和した美しさを演出している。





さて、そんな優雅な様式の建物にはひどく似つかわしくないものが・・・ここにひとつ。




「・・・・・・よっし、脱出決行」




大きなバルコニーからこそこそとした人影が現れた。

どちらかと言えば東洋系の血を色濃く継いでいる顔立ちにかかる茶色の髪がひどく目立っている少女。

クローゼットの中には数え切れないほどのドレスやワンピースが常備してあるのに、

高級感溢れる屋敷で浮いてしまっている薄手のコットンシャツとネイビーカラーのジーンズ姿。


目をきらきらと輝かせてしっかりしたロープをバルコニーに結び付けている。





「部屋に閉じ込めたくらいで勝った気になっちゃあ困るなぁ」





んふふふふと不気味な笑いを浮かべる様子ははっきり言って恐ろしいものを思わせる。



目鼻立ちが整った可愛らしい容貌なのに。




長めの髪をきゅっと後ろで一まとめにして、

やがて彼女はバルコニーに繋いだロープを力いっぱい引っ張り、自分の体重に耐え切れるか試してみた。





・・・大丈夫、いける。


ふっと笑い、バルコニーによじ登って下に誰もいないのを確かめる。

穏やかな初夏の風がとても心地いい。





「Ladies and Gentlemen!!

嬢がお送りする、奇跡の蒸発マジック、いっきまーす!」





軍手をはめた手でしっかりロープを握りしめ、バルコニーから身を躍らせた。

2階であるここは高さにして大体8メートル。これくらいなら怖くはない。

すすーっとロープを伝って慣れたようにすたっと地面に着地する。




「今日もお見事!行ってきまーすっ!」


「ダメですよ、さま」




誰に言うでもなかった言葉に、すぐ側から冷静な声が返ってきたので飛び上がって驚いた。




「うひゃあっ!!?ウィ、ウィル??ってば何でーーーっっ!?」




両親も兄弟もない、この家の破天荒なお嬢様の面倒を見る若い執事が腕組みしてそこに立っていた。



冗談の通じない真面目な頭のいい人間で、

脱出の際、いつもどうやって出し抜くかアイデアを巡らせるのにひどく時間がかかるのだ。


ついさっき、さっさと屋敷を出ようとした自分を部屋に閉じ込めたこの男。

閉じ込められて観念した風を装って可愛らしく「ウィルの淹れたアイスカフェオレが飲みたいな〜」と頼んだのに。





「何度も同じ手が通用するとお思いにならないことですね。

さぁ、今日という今日はきちんとピアノレッスンを受けていただきますよ」


「えーーー!?この脱出方法も、もう通用しないわけーーーー!?」




げんなりした声で叫ぶと、草むらや建物の影に潜んでいたらしい使用人たちが次々と姿を見せた。





・・・ウィルの差し金か。

どうりで庭園がものすごく静まり返ってたわけだよ・・・。






自分を取り囲むようにじりじりと寄ってくる面々に向かって舌打ちしてふぅっと溜め息をつく。


彼らから視線を外さないようにしっかりと見据え、

こっそりジーンズのポケットを探り、後ろ手に取り出したのは小さなボール。




まだ試作品だけど・・・、大丈夫だよね。




にやりと笑って、そのボールを思い切り地面に叩きつけた。







ぼんっ








途端に白い煙があたりを包み、みんなの咳やくしゃみ、悲鳴が重なっていく。





「御機嫌よう、皆々様!」





煙幕に紛れて、私は振り返らずにその場を走り去った。



























「あっちゃ〜・・・、やっぱまだ改良が必要だなぁ・・・」



並木道を歩きながら自分の体についた白い粉を払う。

ぱんぱんと服を叩いてもまだ取れない。


年頃の女の子が埃まみれという問題ある事態だけど、特に気にしないことにした。




向こうに着いたらシャワー貸してもらおうっと。
















口笛を吹きながらのどかな並木道をひたすら歩き続け、やっと目的の場所にたどり着いた。


自分の家と比べてもちっとも劣らない、大きな古い屋敷。

開け放されている門をくぐり、広い庭園へ一歩足を踏み入れる。



すぐに目に入ったのは、涼しそうな木陰でハンモックに身を預けて本を読んでいる黒髪の男性。




「エルさーんっ!」




大声で呼ぶと、彼は本から顔を上げてこちらを向く。

ダッシュで彼のところまで駆け寄ると、彼はゆっくりと身を起こした。

ひどくラフな白いシャツがとっても眩しく見える。




「ああ、ちゃん。今日は随分と遅かったね?

って・・・・・・どうしたんだ、そんなに真っ白になっちゃって。恐怖体験か?」


「あははっまさか。遅くなってごめんねー、まず学校で先生に捕まっちゃってさ」





ムカついたクラスメイト、ボビーの頭にバケツ3杯分の水をぶっかけてやっただけなのにね。

あの石頭リチャーズ教頭め。

今度はその殺風景な頭にお花でも咲かせてやっちゃおうか?





「そんでもって何とか家に帰ったら、ピアノのレッスンサボれないように部屋に閉じ込められた挙げ句、

バルコニーを飛び降りたらウィルやみんなが待ち伏せしてるんだもん。

試作品の煙幕を爆発させたら思った以上に威力があって、結果、私まで真っ白け〜〜〜」





おどけたように両手を広げてそう言うと、自分の癖のひどい髪をいじっていたエルさんは可笑しそうに笑った。




「それはまた大変だったな。シャワーでも浴びたらどうだ?」


「勿論そのつもりっす!ワタリさんに頼んできますねー。

・・・ところで竜崎は?不健康くんはまだ部屋にいるの?」


「ああ。ちゃんが来たら出るとか言ってたぞ。

読破したい本があるから、それまで呼ばないでくれって」





そう言って、親指でひょいっと彼が指差したのは固く窓を閉じた部屋。

2階の隅にあるあそこがあいつの部屋。





「そーなんですか?それじゃあ呼びに行きませんとね!」
































赤い絨毯が敷かれている廊下をたったったと駆け抜ける。

目当ての部屋の前で立ち止まり、すぅっと息を吸った。



こらーーっ!パンダ竜崎起きろーーーーっ!!




古びているけどしっかりしているドアを蹴り開けて遠慮もなしにずかずかと踏み込んだ。



ベッドと小さなデスク、木製のチェストとソファしかない殺風景な部屋。





「・・・・・・・・・起きてますよ。

この前ベッドのスプリングを壊してくれたのに、そろそろそのドアも修復しないといけないんですか?」





昔からちっとも変わらないこの喋り方ももう今では慣れてしまった。


ソファに体を投げ出して本を読んでいた彼はちらりと目だけ上げて私を見上げる。

私が彼をパンダと形容する理由の濃いクマは、今日も健在。

ちゃんと寝ろっていつも言ってるのに、この人は。




「・・・・・・何なんですか、そのひどい格好。

あの並木道のどこを通ってきたらそんなに真っ白になれるんですか?」




すっと目を細めて嫌味っぽく言われてしまった。




「・・・せっかく来てあげたのに、そんな嫌味で迎えなくたっていいじゃない。

・・・・・・、悲しい」




よよよと泣き崩れる真似をしてみても、彼はちっとも動じない。



・・・・・・もう一押しか?

そう思って、更に咽び泣こうとするけれど。




「・・・・・・泣きまねをするなら、せめてその口許の笑みはどうにか隠す必要がありますね」




読みかけの本に栞を挟んで、寝転がっていたソファにむくりと起き上がった。

エルさんとは対照的な癖のない細い猫っ毛の髪がはらりと顔にかかる。




「・・・っち、この手ももうあんたには通用しないのね」




演技の泣き顔の仮面を取っ払った。

ウィルといい、こいつといい、いつも同じ手じゃすぐに通用しなくなっちゃうのね。

ああもう、新しい手口考えるのって結構大変なのよ。




さま、こんにちは。お変わりはないようで」


「あ、ワタリさん、こんにちはー」





エルさんと竜崎の執事を務めているワタリさんがドアの前に立っていた。

この人も昔から変わらない、すっと背筋を伸ばして背の高いおじいさん。

いつもおいしいお茶とお菓子を出してくれるから大好き。




「本当に真っ白ですね。バスルームに湯を張ってますので宜しければどうぞ。

湯上りにお茶にいたしましょう」


「ありがとうございますー!」





ワタリさんは笑って静かに部屋を後にした。

私もるんるんと部屋を出て行こうとするけれど、ふとドアの前で立ち止まる。

くるりと振り返ると、同じく部屋を出ようとしていた竜崎とぱちっと目が合った。

不審そうな目で私を見る竜崎。




「・・・何ですか、?」


「・・・・・・・・・・・・・・・お風呂覗くなよ、竜崎?」




それだけ言って、ばっと部屋を飛び出した。





「だだだ誰がですかっ!?」




どうやらこの一言は効いたみたい。真っ赤になったらしい竜崎が珍しく声を荒げる。

その一言を背中に聞きながら走る私は小さくガッツポーズをしてみせた。




















「はぁ・・・、すっきりした〜〜・・・」



バスルームを借りて真っ白けの体をすっかり洗い流した。

よくここには遊びに来てて、私の服も数着置かせてもらってるから問題はなし。



いい匂いのする白いタオルでわしゃわしゃと頭を拭きながらバスルームを出た。



ホールから続くガーデンテラスではエルさんと竜崎、ワタリさんが白いテーブルを囲んでいる。




「お待たせー!」




私の一言に、エルさんは笑い、竜崎はちらっと顔を合わせ、ワタリさんはあたたかいお茶を出してくれた。


そして始まる、私たちのお茶会。






「もう、竜崎ってばシャワー覗いてなかったね?つまんないの。私、そんなに魅力ない?」


「だから誰が覗きますか!?」


「そうか、ちゃんのシャワーを覗くなんてお前ももうそんな年になったのか。早いものだなぁ」


「兄さんまで・・・っ!もういい加減にしてください!」









週1回はこうして、二人と一緒にお茶会をすることにしているんだ。

その為にレッスンをどうやって抜け出すかいろいろ考えてる。




可愛いお人形さんを育てるみたいなレッスンに縛られたりはしないもんね。

そんなのより、こうしてエルさんや竜崎といろんな話をしてる方がよっぽど為になるし、何より楽しいもん。




また来週ね?

今度はフランス語レッスンの逃亡を考えておかなくっちゃね。